五輪拒否へ! 「別々の世界、別々の夢」
平井修一
中共のチベット侵略に抗議するチベット人デモ隊へ中共は弾圧を強めている。抗議行動はチベットに隣接する省でも散発的に起きている模様で、内外で中共の侵略と人権抑圧、さらに北京五輪を非難する声が高まっている。ワシントンポスト紙のニュースを翻訳する(拙訳はご容赦を)。
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中国当局、チベットの抗議者に降伏呼びかけ
中国支配に対するデモに警察の群れ、ラサで少なくとも10人の死者
ジル・ドルー、エドワード・コーディ記者
ワシントンポスト外地勤務
2008年3月15日土曜日;午前11時33分
【北京、3月15日】中国の武装警官隊は、ラサで多くの中国人所有の事業所を破壊し、政府発表で10人が死亡した暴動を鎮圧するため15日の土曜日、チベットの首都の通りに殺到した。当局は暴徒が月曜日の真夜中までに降伏するよう要求しており、小売店経営者は彼らの店で呆然としており、観光客は都市から逃げ去った。
ヒマラヤ台地の有名な観光地ラサは、当局の発表と電話取材した観光客、住民によると、暴動の1日後は静かだった。武装したパトロール隊は中心部を制圧し、伝統的に反中国感情の中心であった仏教寺院を閉鎖したと言う。
「彼らはラサを封鎖した」と英国人観光客のデイビッド・マッギー(49歳)が証言する。彼は暴動真っ最中の金曜日の午後に電車でラサに到着し、できるだけ早く去る予定だ。「我々はラサを観光するつもりはない」。
セントルイスからの観光客、パトリック・コナガンは、彼が金曜日の午後にバスから降りると「突然、黒い煙が上がった。警察は通りを封鎖し、人々は走っている。混沌としていた」と言う。
コナガンは抗議者から危害を加えられなかった。「彼らは我々と握手し、自分たちのメッセージを外に伝えるようにと言っていた」。彼が土曜日にラサから北京空港に降りたのでインタビューしたところ「もし自分が中国人だったら、アメリカの人種暴動の渦中にいたように感じただろう。私はトラブルに遭っていただろう」。
中国当局によって旅行と報道は厳しく規制されており、中国の支配を逃れるために亡命中の何千ものチベット人の間で、インターネットと電話で様々な情報が流されているが、土曜日の暴動の詳細を確かめることは不可能だった。
地元自治体は容赦のない取締りを宣言した。8月に2008年オリンピックのホスト国として輝こうという中国は危険を冒している。ラサでの拡大している抗議についての沈黙の後、国営メディアは大々的に暴動のビデオを放送して、抗議者を狂暴な破壊活動家と断定した。地元の当局は情報提供者に報酬金を出して、抗議者を捕えたらその同居者は皆罰されると警告している。
暴動は中国がオリンピックのイメージとして「一つの世界、一つの夢」を泥で汚しただけでなく、中国が土曜日の大ニュースとして望んでいた、共産党翼賛の全国人民代表大会による胡錦濤の主席再任と、彼の有望な後継者、習近平(Xi Jinping)の副主席就任を霞ませてしまった。
習近平の最初の職務は、オリンピックの管理・監督だ。
ラサの暴動はおさまったが、月曜日に始まった抗議活動の原因に対する一般的な認識と、オリンピックのホストとしての中国の役割を考えて、地元の官憲は金曜日まで治安活動を控えた。警察は武器を使うことなく、燃えている建物から3人の日本人観光客を含む580人以上を救出したと言う。10人の死者の多くが彼らの店が燃え上がった時に焼死したオーナーであると言った。ラサに戒厳令は布かれていないと言っている。
中国人指導者はラサの住民に「犯罪的な活動取締りに協力してほしい」と訴えている。オリンピック組織委員会のスポークスマンは、暴動があったからといって聖火がエベレスト山とチベットに運ばれる計画を中止することはないと語っている。
活動家とチベットの亡命者は、金曜日の暴動を受けて、死傷した僧侶と支援者の数の把握に努めていた。彼らは、逮捕された抗議者の多数(おそらく何百)に関する情報も捜していた。
インドの亡命者は、シカツェ(チベットの2番目に大きい都市)でデモ行進を組織しようとした49人のチベット人が土曜日の朝に逮捕されると言った。102人のデモ隊が金曜日にインド当局によって拘留されたものの、インドの別の44人の亡命者はチベットに向かって行進している。
チベットの活動家は、たとえ今何がラサで起ころうが、チベットへの中国支配に抗議のため、中国にその強硬政策を変えるように圧力をかけ続けると予測した。「自由チベットのための学生連合」のスポークスマン、ラードン・テソングはインドのダラムサラで「外地のチベット人にとっては一矢を報いた感じだ。小さなキズがガラスにできて、変革をするために我々はそこを押し続けなければならない」と語った。
中国政府は暴動をダライラマ支持者による計画の結果として描写した。ダライラマは中国支配に対する反乱を導いた後、1959年以降インドへ亡命中である。チベット人によれば、抗議は中国のますます抑圧的なった政策に対する反応だ。中国はチベットの国土と国民を搾取する一方で、チベットの文化と宗教を徐々にむしばんでいる。
「チベット人は、厳しい経済同化を経験している」と、ケイト・ソーンダース。ワシントンに拠点を置く「チベットのための国際キャンペーン」広報ディレクターだ。かつて広大な地域の80パーセントを占めていた大草原で家畜を育てていた遊牧民は農業コミュニティに移住させられ、彼らの土地が「文字通り、彼らの足下から取られている」。
都市では状況は特に深刻で、中国人が事業を起こし、中国人を従業員として雇う。1400年を経たジョカング寺院の外の広場でさえ、伝統的なチベットのスカーフが中国人によって売られているという。
チベットには280万人がおり、その95パーセントはチベットと他の非中国の民族だ。
北京がラサへ鉄道線路を造り、何千もの中国人の移住者と実業家がチベットへ流入した過去2年の間に、チベットにおける緊張は高まっていった。
一方、地元の中国当局は伝統的な仏教を厳しく制限している。ダライラマへの中国当局の強烈な攻撃が、仏教徒の間で広範囲にわたって中国への怒りを煽っていると、ソーンダースは語る。
「中国人は、ダライラマへの彼らの敵対的な攻撃により、中国以外の世界と足並みが揃っていない」。米国および他の国は中国に対し、チベットの将来についてダライラマとの対話を開始するよう迫っている。
ソーンダースは、ダライラマの関与なしには対立の終結はあり得ないとして、「中国人に最も困難なことは、これらの懸念が真実であり、消え去ることではないことを認めることだ」と言う。
「ダライラマには西側でかなり良いイメージがある」と、北京の中国人研究者も同意する。彼は、微妙な話題のため匿名を条件に話した。「中国政府はチベット問題に関して凶悪者として国際社会から見られてきたので、政府にとっては何を説明しようと得るものはない」。
(平井の注:以下はチベット亡命政府のサイトからの引用です。ご参考までに)
1949年、中国の人民解放軍はチベットに侵攻して全国土を占領し始め、ついにはダライ・ラマ法王がインドへ逃れ、1959年3月に勃発したラサ蜂起が鎮圧されるに至った。ダライ・ラマ法王に続いて、約8万人ほどのチベット人が亡命し、インド、ネパール、ブータンに定住した。難民の流入は今も続いている。現在、難民の数は、亡命中に生まれた者を含めて合計13万人以上となっている。
1959年4月29日、ダライ・ラマ法王はインド北部の丘陵地ムスーリーにチベット亡命政府、つまり中央チベット行政府 Central Tibetan Administration(CTA)を新たに樹立した。1960年5月、亡命政府はダラムサラのガンチェン・キション Gangchen Kyishong(チベット語で「雪国の喜びの谷」の意)と呼ばれる地域に拠点を移した。


by kaikai
中核派と革マル派