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漱石の妻、伸六の母

2007/11/10 20:17

 

夏目漱石について、愚にもつかぬ青春三部作を読んで以来、いつか書いてみたいなあと思いながら10年以上もたってしまった。

「坊ちゃん」を読んだのが中学生のときで、やたらと乳母を慕う話が出ていたので、「実母の愛が薄いのだろう、漱石は家庭に恵まれなかったのだろうな」と思った。マドンナは結局「金色夜叉」(尾崎紅葉)のように金満家に嫁ぎそうな様子だったから、「漱石は女不信で、女嫌いだな、女運が悪いのかもしれない」とも思った。

家庭に恵まれないといえば太宰治もそうで、彼も「津軽」の中で乳母への想いを書いている。母の愛情を乳母の愛情で代替している。

漱石は目も開かない幼い頃から里子に2回も出され、7歳のときに生家に出戻りしている。温かい家庭で愛情をもって育まれるという風ではなかったろう。まともな家庭を営む素養が身につく環境にはなかった。そんな彼がこしらえた家庭がどうであったのか、息子の夏目伸六が「父・夏目漱石」に記している。

<暗い中の間の・・・仏壇の前で、その時は母は何かジッと拝んでいた。・・・母は、たしかに泣いているようだった>

それでも伸六は姉(筆子)からこう言われるのである。「伸ちゃん達はとてもよかったのよ。だってお父様が一番病気のいい時に育ったんですもの」

漱石は精神を病んでいた。
<正常なときに父は、そうみだりに訳もなく怒るような、そんな人間では決してなかった・・・
恐らくまだ私が小学校へあがらない、小さい自分のことだったろう・・・

「馬鹿っ」
その瞬間、私は突然怖ろしい父の怒号を耳にした。が、はっとした時には、私はすでに父の一撃を割れるように頭にくらって、湿った地面の上にぶったおれていた。その私を、父は下駄ばきのままで踏む、蹴る、頭といわず足といわず、手に持ったステッキを滅茶苦茶に振り回して、私の全身へ打ちおろす・・・その場に居合わせた他の人たちも、皆呆気にとられて呆然とこの光景を見つめていた>

激情に駆られると乱心してしまう。こんな亭主を持った奥さんはまともでは務まらない。

<私はあえてここで、母を弁護する気はさらさらないが、それと同時に、また、一般世間の風評にも雷同する気は毛頭ない。
恐らく読者の大半は、すでに御承知のことと思うけれど、私の母ほど天下の悪妻として喧伝されている女も珍しいのである>

漱石の奥さん、鏡子について、表具師・中村鶴心堂の話が「職人衆昔ばなし」(斎藤隆介)に収録されている。

<今でも忘れられないのは、(漱石から)紹介状をいただいたお礼に、先生のお宅に伺った時のことなんですが、内玄関に立ったら奥さんが出てみえましてね、有名な鏡子夫人です。太って立派な方でした。

「京都へ(修業で)参りましたら、一所懸命やって参ります」
って申し上げたら、
「そりゃああんたの勝手よ」
ってんです。なるほどこれはそのとおりで、これには驚きました。
京都へ行きましてからも、時々この「そりゃああんたの勝手よ」が思い出されましてね、がんばっても投げ出してもみんな自分の責任だ、がんばらなくちゃ、と、良い励みになりました>

普通の人が、知人から「修業の旅に出ます、頑張ります」と言われたら、「そうですか、体に気をつけて頑張ってくださいね」と挨拶するが、漱石のカミサンは毎日、精神病の患者と対しているのだから、そんな柔な言葉はかけない。優しくすれば患者はつけあがるのである。

伸六は言う。
<牛どし生まれのむっとした、まるで世辞気もないところも、初対面の人間には甚だ尊大に>見えたようだ。

夏目家がどうにかもったのも実は夫人の「大雑把な」気性によるのだろう。暖簾に腕押し、糠に釘、馬耳東風、柳に風、と漱石のかんしゃくを受けした。

<もっとも朝寝坊であり、無計画であり、父から見て鈍感な女であるという点では、母は決して良妻であるとはいえないが、そうかと言って世間に喧伝されるようほどの悪妻でもなく・・・愚母であるところに、私個人としては、むしろより以上の愛情を感じている訳である>

小生は漱石の作品はあまり感心しない。それよりも弟子・子分をトコトン面倒見た漱石に、「これはなまじの人間にはできないな」と敬意を表している。それにしても四畳半、六畳、八畳(書斎)の家に、ひっきりなしに弟子が集うのである。梁山泊だ。並の神経の奥さんではとても務まらなかったろうと、鏡子夫人には漱石に対すると同様の敬意を表したい。

 

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